四代 今西 信一|歴史|株式会社 今与|Imayo & Co., Ltd.|1861 KYOTO

戦争の混乱を乗り越え、「ものづくり」を実現。

四代信一は、三代與兵衛の長男として1912年(明治45年)に誕生しました。同年7月には大正へと改元。明治から昭和への過渡期の大正は、民衆と女性の地位が向上し、西洋文化の影響を受けた新しい芸術が広がりはじめ、ロマンと躍動感に溢れた少年時代でした。やがて日本が戦争に傾斜していく苦しい青年期を迎えますが、たゆまぬ努力で戦中・戦後の激動期を乗り越え、今与の基盤を作り直したのです。

信一は京都市立第一商業学校を卒業。神戸で真珠の修行をした後、今与に加わり、父である三代與兵衛より宝石の商いを学びました。二度の戦争に招集されましたが、九死に一生を得て京都に帰還します。京都市内は大きな戦災こそ受けませんでしたが、戦後、都心部の大幹線である五条通・御池通・堀川通が建物強制疎開の跡地利用として整備されたため、五条堺町界隈に問屋街が戻ることはありませんでした。

信一は鳴滝の地で、真珠の卸売りを手始めに、ダイヤモンドやカラーストーンの卸売りを再開します。ほとんどゼロからの再出発でしたが、卸売り仲間中心の商売を軌道に乗せたのです。手作り工房での製造にも着手し、確かな品質でお取り引き先の信頼を得ます。高度経済成長期には取引の増大にともない、複数のジュエリーを同時に鋳造できる「キャスト」を導入。手作りの高い品質とキャストの生産性が融合した製造加工工場へと発展させました。1966年には、五代となる長男・信裕の参加を得て法人化。「株式会社今與」(後に表記を「今与」に変更)を設立後、運営を信裕に任せ、ご縁のあった伊勢丹様のご要請もあり、海外拠点を築きます。

晩年は、全国宝石卸商協同組合の理事長を務めるなど、業界の発展に注力します。一方で、一貫したものづくりへのこだわりと芸術への深い愛情から、世界に一つしかない逸品の数々を生み出しました。職人の技を最大限に活かし、ダイヤモンドや金で作った逸品の煌めきに、四代のものづくりへのこだわりを見ることができます。